女子大生の感想文記録

提出物です。大学1年生。

メディアリテラシ4

ランサムウェアー身代金を払っちゃダメ?という情報倫理の動画では、女の子がレポートを作成していたところランサムウェアの被害に遭ってしまう。ランサムウェアとは感染したパソコンをロックしたりファイルを暗号化したりした後に、それらの復元と引き換えに身代金を要求する不正プログラムのことで、原因の多くは改ざんされたサイトを閲覧してしまったことである。感染された時は暗号化されたファイルを復元するソフトを使ってみたりするなど、身代金を払わないことが大事である。まずはそのような被害に遭わないために、セキュリティソフトを常に最新版にしておく、被害にあった時のために他のデバイスにバックアップを取っておくなどの対策ができる。

 

私もネット上のサイトを使って調べものをしたり、簿記の勉強をしたりする。無料でたくさんの情報が見られるネットは本当に便利だし活用すべきだ。ただ、ウイルスに感染したサイト、改ざんされたサイトを見てしまったときに被害に遭うリスクがあるということを知ってとても怖いことだなと感じた。

 

私自身はこのようなランサムウェア被害に遭ったことはない。しかしネットのサイトを閲覧している現状、被害に遭いパソコンを初期化しなければならなくなる可能性は大いにある。セキュリティソフトは最新版だが、このパソコンのデータが消えると困ってしまうので、他のパソコンにバックアップを取ることが特に大事ではないかと思う。

現代の私の自己形成に影響したこと

私が自分の幼児期、児童期の中で最も自分に影響を与えたと思う出来事は、弟ができたことだと思う。

弟が生まれたのは私が7歳の時である。私は性格上おっとりしていてマイペースなのと、それまでずっと一人っ子として育てられ何事も優先されてきたので、取り合いとか喧嘩をすることは全くなかった。喧嘩をしないのはいいことでも、なされるがままな私を見て親も心配していた程であったらしい。

しかし弟が生まれて、両親が弟につきっきりになってしまったり、生活していく中でなにかと家族の中で弟が優先されていることによって、少しずつ闘争心が芽生えてきたのだと思う。例えばそれまでは鬼ごっこが大嫌いだったし、友達に何おもちゃを取られても言い返せなかった。今では家族でケーキを食べるときは兄弟でジャンケンして勝った人から少しでも大きいのを選ぶし、勝ち負けのつくスポーツは大好きである。もちろん姉になるということがとても嬉しかったし、弟が可愛くて仕方なかったのもよく覚えているけど、無意識のうちに競争意識が育まれていっていたんだなと振り返って思う。

弟は私に、手本となるような生き方をさせるだけではなく、競争する力をつけてくれたと思う。

私はこの事件について読んだとき、本当に実際にあったことか信じられなかった。暴走する路面電車の例は、ハンドルを切るにしろ太った人を突き落とすにしろ残酷だが思考実験のための例え話だったから驚かなかったが、本当に功利主義を貫き通して殺人をするのが正しいと考える人がいるんだなと驚いた。

私はこの場合であったら、1人を殺して3人が生き延びるのは間違っていると思う。それはパーカーを殺して得られる利益とそれによるコストを比べてコストが上回っているから、という問題ではない。サンデルが取り上げた2つの異議のうち2つ目にあたるものである。たしかに、なるべく多くの命を救おうと考える功利主義は間違っているわけではない。この事件のように誰かを殺すような状況でない限りは最善の結果を求めるべきであると思う。しかしどんな理由があっても、弱みにつけこんで人を殺し、ましてやそれを自分達が生き延びるために利用するというのは許されることではないと思う。体調を崩してもうすぐ亡くなってしまいそうで、亡くなっても悲しむ者が少ないパーカーであっても生きる権利がある。しかも全員が同意した状態でくじ引きをして犠牲者を決めるならまだしも、全くの同意なしに殺すのはおかしいと思う。

道徳はただ単にコストと利益を比べて決められるものではないと思うし、このような状況でも人権だけは尊重されるべきだと思う。功利主義は間違っていないと思うが、それが人を殺してはいけないという道徳的な考え方を超えることはないと思う。

倫理学第3回レポート

道徳的原理について考えたとき、できるだけ多くの命を救うべきという原則に従うと、確実に一人の方を殺すのが正しいとなる。

そして、理由はあれど無実の人を殺すのは間違いであるという原則について考えたとき、五人の作業員も一人の作業員もまたは太っている通行人も皆無実であるためどの選択も間違っていることになると思う。何もせずに五人が殺させるのを見てるのも、手を加えなかった選択をしたということで殺したと同じだから、この原則に関してはどの選択をしても従うことはできない。

そのため、ハンドルをきるにせよ人を突き落とすにせよ、なるべく多くの命を救う選択をするのは正義であると言っていいのではないかと思う。

私もこの本に書いてあるように、ハンドルをきるだけなら一人しかいない方に路線変更できるが、一人を突き落とすことはできないだろうなと思う。結果は同じでも、自分の手を加える程度が違うからずっと罪悪感が残るからだ。ましてや自分が飛び込んで止めることができたとしても絶対に飛び込まないと思うが、できるできないを別として考えると、一人を犠牲にすることが正義ではないかと思う。